April 20, 2022

武蔵柴田家と外国の関わり、そのきっかけ

柴田の祖先は伊賀者忍士(しのびざむらい)の一人で親戚の永持とともに1582年、徳川家康の甲賀伊賀越えに随従し、同年、徳川家に召し抱えられました。

忍士(しのびざむらい)とは、忍術を研究し、郎党にそれを教え、忍びの者として活動をさせていた地侍です。家康に仕えたのは、忍びの者ではなく、彼らを指揮していた忍びざむらいです。忍びの者は江戸時代の天下泰平のもと消えていきましたが、忍士は幕藩体制のもと、それぞれ時代の要求に適応しながらも連綿とその文化を継承してきました。

  1582年、家康は、「本能寺の変」の起こる数日前から畿内各地を見物中で、泉州の堺で事件のことを聞きました。このときの家康のお供は30人余り。いったん本国三河へ帰り態勢を立直すことになりました。
  家康の一行は、甲賀伊賀越えをして船で三河に渡る最短の経路を選びました。しかし、一行は武士と言えども少人数で間道を通行することは非常に危険でした。そこで、伊賀出身の服部半蔵が伊賀者忍士に護衛の要請を出したのです。家康の一行は、伊賀者、甲賀者に守られ伊勢に行き、海路、三河に戻ることができました。 この「伊賀越え」以来、徳川家康は護衛にあたった柴田・永持などの忍士を抱え入れ、優れた忍びを手に入れたのです。

  江戸幕府の「伊賀者由緒書き」に、神君伊賀越えに従った柴田周防と永持徳蔵の記事があります。

   永持徳蔵は1584年、服部半蔵とともに織田軍の加勢のため松ヶ崎城の戦いに出陣し討死。

  1590年、伊賀者の柴田永持一族は家康に従って江戸(武蔵)に入府し、武蔵一族となりました。

    柴田周防は1615年の大阪冬の陣で、二人の伊賀者と諜報活動に従事して、討死。

  一族は譜代の忍びで、多くの伊賀者、甲賀者のように門番の役目にはつきませんでした。両家は婚姻関係で非常に緊密な一族を形成し、幕末までには他の忍士家や御庭番家も取り込む勢力になっています。

  1794年、幕府は学問吟味という試験制度に基づいた人財登用を始めました。これは武蔵一族にとっては非常に幸運な展開でした。

 一族ではもともとから地方弁をマスターする習慣があり、これが学問吟味のために漢文の勉強になってもさほど難儀には感じられなかったようです。道教、儒教、朱子学などの原文の素読は子供のころから慣れ親しんでおり、幕府に表彰されています。そのため忍士たちは幕府が行った四書五経に関する学問吟味の試験に合格することができ、多くの忍士が外交や海事専門の幕臣になりました。

  外交面で活躍した一族の忍士で注目に値するのは柴田剛中と永持亨次郎です。

 

 

   永持徳蔵は1584年、服部半蔵とともに織田軍の加勢のため松ヶ崎城の戦いに出陣し討死。

  1590年、伊賀者の柴田永持一族は家康に従って江戸(武蔵)に入府し、武蔵一族となりました。

    柴田周防は1615年の大阪冬の陣で、二人の伊賀者と諜報活動に従事して、討死。

  一族は譜代の忍びで、多くの伊賀者、甲賀者のように門番の役目にはつきませんでした。両家は婚姻関係で非常に緊密な一族を形成し、幕末までには他の忍士家や御庭番家も取り込む勢力になっています。

  1794年、幕府は学問吟味という試験制度に基づいた人財登用を始めました。これは武蔵一族にとっては非常に幸運な展開でした。

 一族ではもともとから地方弁をマスターする習慣があり、これが学問吟味のために漢文の勉強になってもさほど難儀には感じられなかったようです。道教、儒教、朱子学などの原文の素読は子供のころから慣れ親しんでおり、幕府に表彰されています。そのため忍士たちは幕府が行った四書五経に関する学問吟味の試験に合格することができ、多くの忍士が外交や海事専門の幕臣になりました。

  外交面で活躍した一族の忍士で注目に値するのは柴田剛中と永持亨次郎です。

特に、柴田は横浜港の開港から生麦事件の後処理など、外国関係の全ての事柄に顔を出していました。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」には柴田が当時の米国大使館で大使と英語で歓談しているシーンがあります。地方の情報を収集するには地方弁のマスターは当たり前、国際的に情報を収集するためには外国語の知識が必須であると考え、英語を学んでいたのです。

  日本が開国して、初めて日本人が海外に派遣されたのは1861年の遣米使節で、御庭番家の村垣淡路守が副使として参加しています。

   そして1862年、柴田日向守剛中は遣欧使節の組頭として1年、ヨーロッパに派遣されています。西欧の新聞記者たちは、柴田が西欧における諜報の要であると知り、「柴田、またの名を、影」と書いています。このころの部下の中で有名なのが福沢諭吉です。特に親しかった友人としては水野忠徳や勝海舟がいます。水野は仕事の後、よく柴田の家にやってきて二人で酒を酌み交わしたことが柴田の日記に書かれています。(何を話したのかは書いてありません。)

  帰国直後、柴田は外国奉行として函館に赴任し、ロシア総領事ゴシケーヴィチと横浜鎖港に関する交渉を開始。この間の経緯については「談話書」という形で、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」が函館市中央図書館に所蔵されています。

  柴田が行った外交交渉はバランス感覚に優れており、日本の方針を説明しながら、ロシアの要求も容れるものでした。柴田の先見の明が会談でも見えます。その一つは、留学生派遣についての言及です。これは、後の小出使節団、及び留学生派遣につながりました。

  1865年5月、柴田剛中は製鉄所建設及び軍制調査の(慶応柴田使節)正使として再度に英仏に派遣されます。7月にフランスに入り、製鉄所建設と幕府軍の軍事教練に必要なフランス軍招聘の協定をフランス政府と締結。これに従って、来日したフランス軍人の中にラスト・サムライのモデルになったジュール・ブリュネ大尉がいます。

  このころ、密航してイギリス留学した五代友厚は柴田の調査が自分たちに及ぶにあたって薩摩藩に、幕府の動きに注意するよう手紙を出しています。(柴田の報告を受けても幕府は何もしませんでした。)

  柴田の実弟の永持亨次郎は長崎奉行所の所属で、オランダ商館長から聞き取り調査を行ったり、自宅に英語学校を開設したり、優れた通詞を調達しています。ロシア軍の対馬上陸にたいしての諜報活動や1861年、ロシアの軍艦ポサドニック号の対馬占領事件の交渉は特筆に値します。

  柴田はヨーロッパから帰国後、1867年5月に大坂町奉行、7月9日には兵庫奉行を兼務して外交問題を担当。神戸港に関しては、運上所や埠頭・居留地の造成、徳川道の造成などを進めました。

  1868年1月1日、大坂・兵庫開港の式典で柴田剛中は、英、米、仏、晋、蘭等の公使・領事等出席の下、兵庫開港・大坂開市の宣言書を日本を代表して読み上げています。(幕府は崩壊、明治政府も外交の経験がなく動けなかったため。)

  そして、対外的な事後処理を終えた後、隠居願を提出。見識と人物を評価されて明治政府より招聘が出ますが、これは辞退しました。(しかし、政府に請われた場合は外交問題に関する諮問に対して誠実に応じています。)

  以上が武蔵一族(現在のNPO法人武蔵忍士団)が通詞忍の養成を行うことになった、そもそものきっかけです。 「語学は武器である。」

  江戸幕府の忍びは忍士(しのびざむらい)、忍術は武術ではなく、諜報活動のための戦略的な技術です。忍法とは忍術の指針となる根本原理の集大成です。忍士の道は忍士道と呼ばれています。道教・朱子学的思想を基盤とした忍びの宇宙観でもあります。

 現在の通詞忍は通訳ガイドのライセンスを取得し、忍士道を学んだNPOメンバーです。道場では通訳と忍士道のワークショップを担当するには2段の資格が必要になっています。

Article written by Suzak Shibata
Born in Yokohama, Japan as a daughter of Jin'ichi Tetsubunsai (the 18th generation head of the clan) and Kimi (Someya) Shibata. The 17th generation head, Sen'ichi Tatsunojoh, became Christian and ordered the clan to be closed for 50 years after his death. Tetsubunsai operated his workshop as a blacksmith and continued his shinobi samurai training. He stepped down from his post to be succeeded by Suzak in 2006. Suzak and Tetsubunsai appointed Kazuchika Yoneda to assist Suzak as Tohmoku of the clan. Besides being a representative of the clan, Suzak has managed Honjin Dojo Suzaku has been the head interpreter-trainer in the clan. Authored several books for those who study interpreting.
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